ようやく、試験が終りました。あとは結果を待つのみです。まあ、手ごたえはそれなりにあったので大丈夫とは思いますが。
さて、復活の日記は武術談義で。今回は技術的なことではなく、武道の精神性についてです。タイトルから皆さんお察しの通りだと思いますが。
今回は相撲の話です。初場所で朝青龍関が優勝を果たした際の、いわゆる「ガッツポーズ」について。鮮やかな優勝を決めた朝青龍関でしたが、優勝時のガッツポーズに横綱審議委員会が「待った」をかけました。
以前から言っているように、自分は武道においてガッツポーズなどの勝利をあからさまに喜んだりする行為は美しくない、と思っています。しかしこのニュースがmixiに載ったとき、ユーザーの殆どが「ガッツポーズくらい別にいいじゃないか」という意見だったのには驚きました。今まで、武道の試合においてはガッツポーズを「しないのが当たり前」だと思っていました。ところが、世間では勝ったらガッツポーズを「するのが当たり前」となっている。勝ったら嬉しいのは当たり前、そこでガッツポーズが出るのは自然な行為である、と。
どうやら、「武道の常識は世間の非常識」であるようです。しかし、オリンピック柔道で日本人選手までもがガッツポーズを飛ばし、朝青龍関を初めとした昨今の力士のパフォーマンス性向を見ていると、世間の人が「相撲=スポーツ」「柔道=スポーツ」と思ってもおかしくないでしょう。剣道が、ガッツポーズをすると一本取り消しになることが「へぇー」で片付けられるほどに、武道精神というものは世間には浸透していません。そして、相撲や柔道においてガッツポーズは好ましくないとすると、「それはおかしい」と言われます。武道とスポーツの違いも曖昧になりつつあり、相撲も柔道も見世物としてメディアに露出するようになると、武道精神よりも分かりやすさを求めるようになるのでしょう。
なぜ、ガッツポーズがいけないか? 私は少年時代のころ、先生から「相手の気持ちになって考えてごらん」といわれました。試合に臨むとなれば、誰だって勝ちたいに決まっている。ガッツポーズをして勝ちをアピールすることは、勝ちたかったのに勝てなかった相手の心を踏みにじる行為である、と教わりました。そもそも武道というものは、殺しあいから生まれたものです。勝った、ということは相手の命を奪った、ということです。勝ったことをことさらに喜ぶことは、相手の死を侮辱することに繋がるのだ、と。
ただ、そのようなことをいっても普通の人には分からないでしょう。勝ちたい気持ちはスポーツも武道も変わらないし、殺しあいから生まれたといっても、競技化された武道で実際に殺しあいを演じるわけではないですから。むしろ、防具に守られた剣道よりも直接殴りあうボクシングの方がよっぽど「殺しあい」に近いです。でも、ボクシングではガッツポーズが公然と行われています。そして、そのことに文句をいう人もいませんし(ちなみに、ガッツポーズの由来はガッツ石松氏がやったからなんて説もありますね)
柔道も相撲も、その昔は殺しあいから生まれたものでも、今ではスポーツ視されています。ならば、ガッツポーズだってスポーツなんだからいいじゃないか。伝統とか品格とか、そんなうるさいことはいらない、楽しめればいい! 武道に触れてこなかった人から見れば、そういうことなのでしょう。
では見方を変えてみます。これは、OBの先輩から教わったことです。曰く、「スポーツは根底に“楽”があり、武道は根底に“苦”がある」ということです。
“楽”、つまりは競技そのものを楽しむ事です。たしかに、プロのアスリートは苦しいトレーニングを積んでいるのでしょうが、球技などのスポーツの出発点は、ゲームです。暇つぶし、といったら聞こえが悪いですが文化の極みとしてスポーツが生み出されたのは疑いようもないでしょう。一方、武道は戦場で生き残るための戦闘技術から出発しています。己の体を鍛え、武器化するということは相当に苦しい事です。特に、いつ戦になるかわからないという時代に生きた人達からすれば、今以上に武の道は険しかったのでしょう。根底に“苦”があるということは、すなわち己を鍛えることです。自分の欲求や邪心に打ち克って、一切の妥協を廃した厳しい修行が武の根底にあるものです。
そして、この修行は生きている限り続きます。武道の「道」に、終わりというものは基本的にありません。スポーツにおける試合の意味は、大会で優勝したりすることが目的であり、到達点でしょう。しかし、武道においては試合の勝敗や昇段ですら、膨大に続く「道」の、通過点に過ぎないのです。その「道」にゴールはなく、強いて言うならば死の瞬間こそがゴールなのでしょうか。スポーツは試合は試合、練習は練習ですが、武道においては「試合は稽古のように、稽古は試合のように」といわれます。分けて考えるのでなく、試合も己を鍛える修行の一環であるのです。
そう考えると、試合で勝ったからといってはしゃぐことがいかに愚かしいか、わかると思います。稽古は相手がいなければ成り立ちません。普段の稽古で「私のために稽古相手になってくれてありがとう」と頭を下げるのと同じように、試合においても「私のために相手になってくれてありがとう」という感謝の念が先行します。武道は自分一人で強くはなれません。相手がいてこそ、強くなれる。その、強くなるために手助けしてくれるのが相手であるのです。なので、剣道では対戦相手を「敵」と認識することを嫌います。格闘技などで、相手を挑発する選手がいますが、武道では考えられないことです。
また、武道が己に打ち克つためのものならば、そもそも一度や二度の勝利で浮かれるほうがおかしいのです。一度勝ったからといって、次に勝てるとは限らない。勝ったときこそ、気を引き締めなければならない。普段の稽古でも、そういう観点のもとで行っています。一本とったときこそ気を引き締めよ。それが、「残心」という言葉で表されます。一度の勝ちで浮かれているようでは、果てなく続く武の道を行くことなどできません。最高段位を取得された先生でさえ、「修行中」なのです。
はっきりいって、地味です。挑発めいたパフォーマンスもないし、勝っても憮然としている姿なんて、多分見ている方も面白くないでしょう。だから、武道はそもそもメディア露出したりオリンピック競技には馴染まないんです、本来は。しかし、競技人口を増やすためにはある程度仕方ないのも確かです。昨今、韓国で剣道のオリンピック競技化を計る団体が動き出したそうです。まあ、彼らの場合韓国起源説を唱えたいだけなのでしょうが……
もし、オリンピック競技になるならば、何とか武道の精神を残したままなれば文句はないですが、柔道と同じ轍を踏みそうで自分としては競技化反対です。武の道を体現できなくなったら、もう完全に「SUMO wrestling」やら「JUDO wrestling」やら「Japanease Fencing」とでも名乗って、完全に武道とは差別化を計って欲しいものです。一本とったあと、見苦しくガッツポーズする姿が「剣道」だなんて、思いたくないです。
先日、私の師と最後の別れを済ませてきました。お通夜にも関わらず、多くの方が弔問に訪れました。剣道関係の参列者は、親戚や職場関係の人よりも多いくらいで、剣友やお弟子さんたちが列を成しました。先生の歩んできた「道」が、確かにそこにありました。
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対銃火器戦闘をやる、と前回言ってましたが……すみません、予定変更で。銃火器となると、まだ知識不足が否めないのでもうちょっと調べてからやります。現在、軍隊格闘術やクラヴ・マガについていろいろ調べて降りますので。
んで、代わりといっては難ですが。
以前、じょーもんさんが「武器を扱う人にとって、武器は体の一部なのか、それとも道具に過ぎないのか」と掲示板に書きこんでいらっしゃったので、そのことについて今日は考察してみます。剣術使いとして、これは見過ごせない命題であるので。
さて、武器は道具か体の一部か? これは各々の武術・流派によって違ってくることでしょう。一般に、「~術」とついた場合は、武器を体の一部として使うことを教えていることが多い気がします。というのも、以前見てきたように武術の歴史はまず武器ありきであり、古代の武術は武器術を研鑽する方が多かった。「武器は手の延長」と呼ばれるように、己の手足と同等に扱えなければ、自在に操ることは難しかったのではないかと思います。剣術、槍術、弓術、鎖鎌術、手裏剣術、銃剣術、等々。武器を手にすることは、己の命をその武器に預けることであり、本来なら異物である武器を肉体として認識するまでに研鑽する。空手家が拳を鍛え、ムエタイ戦士が膝を凶器と化すことと同じことです。
自分の経験からいうと、自分は大学に入って、直心影流剣術を習い始めました。古流の剣術は、現代剣道とはまるで体の運用法が違います。まず、用いる木刀が通常のものよりも遥かに重く、大体日本刀の抜き身と同じ重さの物を使います。当然、最初は上手く振れません。が、形を練るうちに、段々と手に馴染んできて、重さも苦にならなくなってきます。重い武器というものは、最初は体がついていかなくて剣に振り回される格好になるのですが、何回も形を打ってゆくにつれて体の使い方を覚え、体にしみこませることができる。丁度、自転車に似ています。最初は上手く乗れなかった自転車が、何度か練習するにつれてバランス感覚を体得し、乗れるようになる感じです。
これは脳の作用にも影響しているようです。人間の脳は、自分の体を超えたものも体の一部として認識する柔軟性を備えています。脳が認識する、体の範囲を「身体図式」といいまして、初めに生まれ持った体を脳は「自分の体」と認識しています。しかし、この身体図式は書き換えることができます。自転車に乗れるようになったときは、脳内の身体図式に自転車という異物が汲み込まれ、あたかも自分の体の一部として機能させることができる。武器術もまた、異物である武器を研鑽し、肉体に取り込む。そのために形がある、と自分は認識しています。そして、武器を体内に取り込むことが出来れば、例えば武器を介して合気や発勁といった力の伝達を行うことが出来る。「武器は手の延長」とは、武器を手と同化させることであると認識しています。
ただし、弊害もあります。武器を手に同化させる、といってもそれを短期間で行うのは難しいということです。素人がいきなり刀剣、弓の類を扱ってもまともに使えません。武器を「手に同化」させるまで習熟させるには時間がかかります。戦国期には農民も戦に駆り出されていましたが、その場合比較的習熟に時間がかからない長槍などを使わせたということです。間合いの取れる槍で馬上の敵を突き、または叩く。その場合はそれほどの技術は要りません。「槍術」として槍を研鑽するというより、むしろ「道具」として使われていたともいえます。一つの軍をつくるのには、武器は道具として扱えるものが便利だったのでしょう。
近代兵器は、この理論に則っています。すなわち、「誰が使っても同じ作用を発揮する」ということ。わざわざ武器を肉体の一部としなくとも、引き金を引けば熟練の兵士でも新兵でも、等しく弾を撃つことができる。マニュアルに従えば、誰でも扱える、道具としての武器。もちろん、銃の扱いは難しく、実際にはまったくの訓練無しで撃つ事など不可能です。しかし、ボタン一つでミサイルを撃ち込める時代になった今、武器は個人の習熟度に関係無しに、等しく「道具」になるよう進化している気がしますね。将来は、ちょっと操作を覚えただけで簡単に人を殺せる武器が主流になるかもです。それはそれで嫌ですが……
さて、武器を手に同化させるとはどのようなことなのか。これは感覚的なことなので、個人によって違います。自分の経験からいえば、無駄な力を使わずに扱えるようになると「同化した」という気になります。重い木剣など、最初は腕にガチガチに力が入っていたのが、あるとき遠心力のままにスッと振ると非常に真っ直ぐに振れるようになりまして。ものすごく、感動したものでした(笑) また試合などでも、当初は竹刀を振るにもいちいち考えなければいけなかったのが、自然に体が動き、咄嗟のことでも反応できるようになると「武器が体に同化」した、と言えるのではないでしょうか。
ただ、一つの武器に習熟しすぎると他の武器が扱えなくなるということもあります。これは何も武器術ばかりではないでしょう。伝統武術家が、近代格闘技のルールに則った動きが出来ずに格闘家に敗れるのも、この辺の理由があることと思います。そんなわけで、昔の武術は複数の武器を扱う流派が多いです。武芸十八般といわれるように、あらゆる武器に精通している人間が「達人」と呼ばれたのでは。そして、武器の動きがそのまま素手に応用され、拳法や柔術といった徒手空拳に通じる、といったことは以前考察した通りです。もっとも、今では武器は武器、素手は素手であり、武器も「剣道」「銃剣道「弓道」「なぎなた道」というように独立した体系を持っていますからね。真の意味での「達人」は少ないでしょう。一応、拙作『監獄街』での、真田省吾はあらゆる武芸に通じている、達人に近い素養を持たせてはいるのですがね。ただ彼は精神が未熟だから(笑)
次回はいつになるか分かりませんが、銃火器について調べが進んだら書きたいと思います。それでは。