ものすごく手前勝手な論理ですが、昨今のアニメやラノベの「萌え」という概念について。
こんな話がある。あのSF超大作『スターウォーズ』の制作にあたって、ジョージ・ルーカスは配給元とこんな契約を交わしたそうだ。
曰く、「映画がヒットしても興行収入は一切いただきません。その代わり、グッズ販売の売り上げを頂きます」と。興行収入が要らない、とは妙な事をいうと思ったがとりあえずそれで納得したそうだ。グッズの売り上げなんて、興行収入と比べればそれほどの価値はない。もうけた、と思ったのだろう。
ところが、蓋を開けて見ると世界中で『スターウォーズ』が大ヒットすると、あれよあれよとグッズが売れていった。ライトセイバーの玩具やら、フィギュアやら、ダース・ベイダーのマスクやら。気がつけばその売り上げは、映画本来の興行収入よりはるか上空を行く売り上げだったそうだ。ルーカス、大もうけである。
なぜ、グッズがそんなに売れたのか。わたくし、思うに映画を見ていた人たちが「ストーリー」より「キャラクター」に魅力を感じていたのではないかと思うのだ。つまり、「萌え」である。自分は、映画や小説なんてのはストーリーが主であって、登場人物は二の次、はっきりいって記号的なものでも十分だと思っている。しかし『スターウォーズ』、ストーリー自体は勧善懲悪のシンプルなものでしかない。しかしそこに出てくるルーク・スカイウォーカー、ダースベイダーなどのキャラクターがあまりに魅力的で個性豊かに描かれている。ルーカスが大好きな黒澤明の影響もあってか、欧米人が喜びそうなオリエンタルテイストな世界観もあってストーリーよりもグッズ、キャラクターや小道具に関心がいっても仕方ないかなと思う。
ただ、萌えとかキャラ「のみ」に関心が行くのってどうなんだろうなと。大事なのはストーリーちゃうんかい、と思わないでもないです。自分はいつもストーリーを重視して執筆しているつもりです。だから、「萌え」要素とかは極力入れていないつもり。はっきりいって、キャラなんて記号でもいいと思ってます。短編ではよく、名前だけで人名を出したりしてますが、それに関してナッツ師匠に「人物描写が足りないのでは」とご指摘いただくのですが、SF短編は物語の進行とオチをつけられれば人物はどうでもいいかなと。まあ、伏線となる容姿の描写はしますが(『動物愛護』のピーター・ゲラール、とか)。長編の場合は、そうもいかないので人物の描写はしますが、それも容姿には殆ど字数を裂かず、その人物の行動と心理を重視しているつもりです(出来てるかどうかのツッコミはなしの方向でw)
以前、『監獄街』の感想で「主人公、真田省吾の容姿が浮かばない」という感想を頂いたことがあるのですが、それはつまり彼の容姿よりも彼の行動様式に重きを置いているからです。もちろん、省吾の二つ名『疵面の件客(スカーフェイス・ソードマン)』に由来する、顔の傷の描写はきっちりやってますが。大事なのはストーリー、キャラはそれを動かすための記号でしかない。「萌え」もいいのですが、まずはきちんと「物語」をかけるようになりたいなと、感じる昨今です。
と、いうことでSF企画作。その辺のことを意識して書いているのですが、
主人公が勝手にツンデレしてしまうのは仕様です。PR