というのは漫画にしろ、映画にしろ。ハリウッドでは、目新しい作品が見つからず、日本のアニメの実写化ビジネスに乗り出しつつあるらしいです。ドラゴンボールがハリウッドで実写化されるし、あとカウボーイビバップなど。攻殻機動隊まで実写になるとかならないとか。
そうした潮流がダメとは言わないけど、オリジナルが生み出されないで昔の作品のリメイクばかりが増えるというのもどうかねー。でも、それはなにもハリウッドに限らず、ある作家仲間さんが言っていたが今の漫画も昔の作品の劣化コピーに過ぎない、という。それはその人の感想だから、絶対正しいというわけではないけども、まあ確かにと思う。何となく、ではあるが漫画やアニメも似たような感じの絵柄、キャラクター、ストーリーが多い気もしなくもないです。
しかし、考えて見れば一つの流行に偏るのはある程度仕方ないことなんでしょうね。「萌え」と言う概念が一般人にも浸透し始め、さらにケータイ小説が流行すると恋愛主流なものが売れるようになる。すると、出版社やアニメ勢作会社もそっちの方が売れるから、当然時流に乗っかるわけですよ。で、作者も恋愛ものに流れていく。
そういう風潮が良いとか悪いとかではなく、近代化ってのはそういうものだと思います。民主主義は多数決の原理であり、資本主義は最大多数の最大効用を目指しているわけです。もちろん、全員が全員同じ意見なんてあり得ないわけですが、少数派よりも多数派が強いのは当たり前。少数派の幸福よりも、多数派の幸福を充足させる方に社会も動く。何故って、その方が儲かるわけですから。儲からない、マニアックな作品をメディア展開させることは明らかに失敗すると目に見えている、そうなると会社は傾き社員も路頭に迷いかねない。そうなると経済全体が落ち込むわけで、従って多数派向けコンテンツが充実するのは致し方ない事。SFが人気ないのも、日本人がそもそもSFに疎い民族だからであって(ただし、映像作品に関しては独自の進化を遂げている)、あの『攻殻機動隊』も当初は海外でヒットしたそうです。
ただ、この多数派が、時としてたった一つの影響で全部引っくり返されることがあるのだから面白い。例えば、日本のアニメにおいてロボット物といったら「スーパーロボット」ものが主流だったのが、『機動戦士ガンダム』の存在により、巨大ロボットを戦車や戦闘機と同じ「一兵器」として扱う、「リアルロボット」の概念を打ち出した。そして、その影響は今日にも及んでいる。またケータイ小説においても、およそ文学とは程遠い文体であるにも関わらず、携帯という媒介を通して手軽に楽しめる、というのが若年層に受けたわけでして。現在じゃ、ケータイ小説は文学の一ジャンルとして数えられるまでになっています。もちろん、現在は批判も多いですが、このジャンルが将来確たる物に成長するという可能性は否めないわけです。まあ、自分は読めないけどw
現在、ライトノベルでは美少女キャラを全面に押し出したものの方が売れているみたいです。そういう傾向が悪いとは言いませんが、やはり自分としてはストーリーに凝ったものを書きたい。萌えやら燃えではなく、中身のある人間を書きたい。そんな思いで、書いております。いつか、ラノベ界を席巻する萌え指向を一新するような、影響のあるものを……書けるようになるまでには、どれほどの時間がかかるやらw
追伸:
今日、チャットにおります。お暇だったら……暇なのは私だけ。サーセンw
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ロカさん、キリ番どうもありがとうございました。15000番目って、キリがいいですねw
さて、新作投稿しました。
新作といっても、以前拙サイトにて掲載した『新宿の猫』を、サイバーパンク風味に改稿したんですが。なろうに投稿しまして、以前よりSF色が濃いかと。
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『新宿の猫』
ジャンル:SF
あらすじ
空洞化した新宿。暴力と、“神域”と呼ばれるネット空間で繋がる希薄な個人。無気力な街に漂う、“猫”と呼ばれるものがあった。それは変化し、彷徨う存在。
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まあ、なんというか色々やっちまったって感じです。ラノベっぽいのばかり書いていると、偶にこんなのが書きたくなるんです。
以前、専門用語の説明が多すぎるといわれたので、「じゃあ説明なんざ取っ払ってやる!」と、無説明なSFに手を出しました。元来、SFってのは説明が多いものですが私の尊敬するフィリップ・K・ディックは科学的説明を読者に「察してもらう」という文体です。一切の説明がないのに、わかるという。まあ、ディックには遠く及びませんがそんな感じを目指しました。
旧版を読んだ方も、読んだことない方も、是非目を通してみてください。できれば感想も欲しかったり(笑)
のっけから、キてます。徹夜続きでテンションおかしい俊衛門です。
地元道場の師匠が他界したり、失意に暮れる暇もなくそのまま試験週間に突入し、しばらくPCも触れない状態でした。今日、とりあえず一息つけまして、といってもまだ試験は若干残っているのですが。
携帯からちょくちょく、皆様のブログも覗かせていただいたりしたのですがコメントできずに申し訳ないです。キリ番も、天崎さんに踏んでいただいたのにお返事も出来ずに。というわけで、二回連続のキリ番ありがとうございます天崎さん。
現在は執筆どころではないのですが、一応は生きていますよっということで。試験が完全に終ったら、またガンガンいきたいと思います。
ああ、でも更新だけはしました。
監獄街、第九章の14話です。
気づけば40万字突破してしまって。もう完璧、新規の読者つかないですねw 超亀更新にも関わらず、感想頂いて本当にありがたいです。
今回の省吾君、じょーもんさんがお好きなクネクネ武器日本代表、万力鎖を利用しています。万力鎖、って聞いた事ないと思いますが、まあ鎖鎌の鎌が無いものとイメージしていただければ良いかと。鎖の両端に分銅がついていまして、投げつけたり手足に絡めたりして使ったそうです。詳しい使用法などは、またいつか解説します。
それでは、またしばらく消えます。次に現れるのは2月の6日ごろでしょうか。その時まで皆さん、お元気で~ノシ
対銃火器戦闘をやる、と前回言ってましたが……すみません、予定変更で。銃火器となると、まだ知識不足が否めないのでもうちょっと調べてからやります。現在、軍隊格闘術やクラヴ・マガについていろいろ調べて降りますので。
んで、代わりといっては難ですが。
以前、じょーもんさんが「武器を扱う人にとって、武器は体の一部なのか、それとも道具に過ぎないのか」と掲示板に書きこんでいらっしゃったので、そのことについて今日は考察してみます。剣術使いとして、これは見過ごせない命題であるので。
さて、武器は道具か体の一部か? これは各々の武術・流派によって違ってくることでしょう。一般に、「~術」とついた場合は、武器を体の一部として使うことを教えていることが多い気がします。というのも、以前見てきたように武術の歴史はまず武器ありきであり、古代の武術は武器術を研鑽する方が多かった。「武器は手の延長」と呼ばれるように、己の手足と同等に扱えなければ、自在に操ることは難しかったのではないかと思います。剣術、槍術、弓術、鎖鎌術、手裏剣術、銃剣術、等々。武器を手にすることは、己の命をその武器に預けることであり、本来なら異物である武器を肉体として認識するまでに研鑽する。空手家が拳を鍛え、ムエタイ戦士が膝を凶器と化すことと同じことです。
自分の経験からいうと、自分は大学に入って、直心影流剣術を習い始めました。古流の剣術は、現代剣道とはまるで体の運用法が違います。まず、用いる木刀が通常のものよりも遥かに重く、大体日本刀の抜き身と同じ重さの物を使います。当然、最初は上手く振れません。が、形を練るうちに、段々と手に馴染んできて、重さも苦にならなくなってきます。重い武器というものは、最初は体がついていかなくて剣に振り回される格好になるのですが、何回も形を打ってゆくにつれて体の使い方を覚え、体にしみこませることができる。丁度、自転車に似ています。最初は上手く乗れなかった自転車が、何度か練習するにつれてバランス感覚を体得し、乗れるようになる感じです。
これは脳の作用にも影響しているようです。人間の脳は、自分の体を超えたものも体の一部として認識する柔軟性を備えています。脳が認識する、体の範囲を「身体図式」といいまして、初めに生まれ持った体を脳は「自分の体」と認識しています。しかし、この身体図式は書き換えることができます。自転車に乗れるようになったときは、脳内の身体図式に自転車という異物が汲み込まれ、あたかも自分の体の一部として機能させることができる。武器術もまた、異物である武器を研鑽し、肉体に取り込む。そのために形がある、と自分は認識しています。そして、武器を体内に取り込むことが出来れば、例えば武器を介して合気や発勁といった力の伝達を行うことが出来る。「武器は手の延長」とは、武器を手と同化させることであると認識しています。
ただし、弊害もあります。武器を手に同化させる、といってもそれを短期間で行うのは難しいということです。素人がいきなり刀剣、弓の類を扱ってもまともに使えません。武器を「手に同化」させるまで習熟させるには時間がかかります。戦国期には農民も戦に駆り出されていましたが、その場合比較的習熟に時間がかからない長槍などを使わせたということです。間合いの取れる槍で馬上の敵を突き、または叩く。その場合はそれほどの技術は要りません。「槍術」として槍を研鑽するというより、むしろ「道具」として使われていたともいえます。一つの軍をつくるのには、武器は道具として扱えるものが便利だったのでしょう。
近代兵器は、この理論に則っています。すなわち、「誰が使っても同じ作用を発揮する」ということ。わざわざ武器を肉体の一部としなくとも、引き金を引けば熟練の兵士でも新兵でも、等しく弾を撃つことができる。マニュアルに従えば、誰でも扱える、道具としての武器。もちろん、銃の扱いは難しく、実際にはまったくの訓練無しで撃つ事など不可能です。しかし、ボタン一つでミサイルを撃ち込める時代になった今、武器は個人の習熟度に関係無しに、等しく「道具」になるよう進化している気がしますね。将来は、ちょっと操作を覚えただけで簡単に人を殺せる武器が主流になるかもです。それはそれで嫌ですが……
さて、武器を手に同化させるとはどのようなことなのか。これは感覚的なことなので、個人によって違います。自分の経験からいえば、無駄な力を使わずに扱えるようになると「同化した」という気になります。重い木剣など、最初は腕にガチガチに力が入っていたのが、あるとき遠心力のままにスッと振ると非常に真っ直ぐに振れるようになりまして。ものすごく、感動したものでした(笑) また試合などでも、当初は竹刀を振るにもいちいち考えなければいけなかったのが、自然に体が動き、咄嗟のことでも反応できるようになると「武器が体に同化」した、と言えるのではないでしょうか。
ただ、一つの武器に習熟しすぎると他の武器が扱えなくなるということもあります。これは何も武器術ばかりではないでしょう。伝統武術家が、近代格闘技のルールに則った動きが出来ずに格闘家に敗れるのも、この辺の理由があることと思います。そんなわけで、昔の武術は複数の武器を扱う流派が多いです。武芸十八般といわれるように、あらゆる武器に精通している人間が「達人」と呼ばれたのでは。そして、武器の動きがそのまま素手に応用され、拳法や柔術といった徒手空拳に通じる、といったことは以前考察した通りです。もっとも、今では武器は武器、素手は素手であり、武器も「剣道」「銃剣道「弓道」「なぎなた道」というように独立した体系を持っていますからね。真の意味での「達人」は少ないでしょう。一応、拙作『監獄街』での、真田省吾はあらゆる武芸に通じている、達人に近い素養を持たせてはいるのですがね。ただ彼は精神が未熟だから(笑)
次回はいつになるか分かりませんが、銃火器について調べが進んだら書きたいと思います。それでは。